今更読んだ『桐島、部活やめるってよ』学校という狭い世界が全てだったあの頃
今更ながら、『桐島、部活やめるってよ』を読んだ。数年前、大学の教授と飲んだときに「面白かった」と言っていたのをふと思い出したので。(映画版も良いですよ!)
何だかとても身に詰まされる小説だった。
高校生の話ではあるけれど共学の学校が舞台なので、共学だった自分の中学時代を重ねてしまった。(高校は女子校だった)中学時代はスクールカースト底辺だったから、昔を思い出してちょっと辛くなった。
上位グループの女の子が文化部である映画部の男子をバカにしたり、いけてる男の子が大人しい男の子に言葉をかけたいのにかけられなかったりとか、上位グループと下位グループの微妙な距離感がものすごくリアルで見覚えがあった。
学校が世界のすべてだった、息苦しい時代。
自分の理解できないことを「キモイ」と一蹴したり、何でも人の真似ばかりして自分がなかったり、見た目ばかり取り繕って中身がない子たちの描写に、結構モヤモヤした。私は昔からこの手の人が苦手だ。
上位グループにいても自分の意見を持って周りに流されず、グループや性別関係なく勇気を持って話しかけることのできるかすみは好きだ。「良いものは良い」と言えるかすみみたいな子と友達になりたかった。
また、校長がしきりに言う「君たちは真っ白なキャンバスだ」という言葉への皮肉もとても共感できた。確かに、高校生は大きな可能性を秘めている存在なのかもしれない。でも、裏を返せば、真っ白状態はまだ何者でもないということでもある。
可能性がありすぎて途方にくれ、絶望を感じる。そういえば、作家として駆け出しだった太宰治も、同じように悩んでいたらしい。
今の私は、そういった若い悩みを通り抜けた先にいる(といっても、悩んでいたのもそう昔ではない気もするけど)。学校という狭い「世界」からは卒業したし、「自分が何者であるか」なんて考えなくなった(私は私だし)。
日陰者の苦しみも、仲良しの友達との熱っぽいトークも、異性とのどきどきする交流も、光るグラウンドや埃臭い教室も、皆過去に置いてきてしまった。感傷的過ぎて嫌な言葉だけど、「もうあの日に戻れない」のだ。
そのことに心底ホッとしている自分がいる一方、一抹の寂しさを感じている自分もどこかにいる。そう思うのは、あの時代はあの時なりに、それなりに精一杯生きていたからかもしれない。今までそんなこと考えたこともなかったけど、この本を読んでそう思った。昔の自分が、ちょっと救われたような気がした。
読者ハ読ムナ(笑)藤田和日郎はなぜ人気漫画家なのか?
私が今日紹介するのは、『読者ハ読ムナ(笑)』という本。
これは漫画家の藤田和日郎さんという方と、藤田さんの担当編集者だった武者正昭さんと言う人の共著。
藤田和日郎さんは『うしおととら』や『からくりサーカス』といった代表作を持つ、少年サンデーの人気漫画家だ。
編集者の武者さんという方は『海猿』という作品を企画して立ち上げた、やり手の編集者。
この『読者ハ読ムナ』はどういう本かというと、漫画家志望の人に向けられていて、かなり漫画家や編集者の手の内を明かした内容だ。
漫画家志望の人に二人が実際に語りかけるようにな文体で、「きみ~なんだったってね。こうしたらいいんじゃない?」みたいな話し言葉で、とても読みやすい。
この本は二人著者がいるのですが、二人とも同じような主張をしていることもあれば、ちょっと違うこともあったり、片方の言っていることをもう片方が補っていたりと、一冊で漫画家と編集者、二人分の意見を知ることができる。
藤田和日郎のアシスタントが必ずやっていること
藤田さんはマンガを描く上でアシスタントを雇っているが、藤田さんの作業場には、一つだけ「ムクチキンシ」というルールがあるという。
絵が下手でも作業に時間がかかっても構わないけれど、作業中に会話の輪に入って来ない人に対してはブチギレるそう(!)。
藤田さんは作業中に映画を流しているが、アシスタントに観る映画全部を五点満点で採点させている。
それで、「何でこの点数を付けたの?」と採点の理由についても突っ込んで質問する。「なんとなく」という理由ではダメで、「こういう理由でこの点数を付けました」と論理的に語れるようにする練習をさせるのだ。
なぜこのようなことをするのかというと、藤田さんはアシスタントに自分の個性を発見してほしいからだという。藤田さんによると個性というのは、「好きなこと」。その答えを探すには外側ではなく、自分の内側を見つめること。
好きなものを言語化することは、自分の個性を磨いていくことだと語っている。また、その反対に、自分の嫌いなものをどれだけ嫌いかを表現するのもアリだと言っている。(アシスタントをしていた人はジャパニーズホラーが嫌いだったそうで、それを作品にまで創り上げた人がいるそう)
さらに、映画を観て採点し合うもう一つの意義は、「自分と自分の作品を切り離す訓練のため」。
自分が高得点を付けた映画を、他の人が低評価をつけても怒らないで、その人の話しに耳を傾けること。
藤田さんが好きな映画でも、自分は好きじゃない・気にいらないことがあったら遠慮なく話すこと。
自分が好きなモノ、相手が好きなモノとその人自身を切り離す訓練は、新人漫画家には不可欠なことなのだとか。
新人漫画家というのは、作品をけなされると自分の全人格を否定されたような気持ちに陥りがちだ。でも、作品と自分を分けて考えらえるようになると、編集者からのダメ出しも素直に受け入れることができるようになるし、読者にけなされても不必要に落ち込まないようになれるという。
週刊誌の漫画家は毎週評価に晒されるので、この自分と作品を切り離して捉える訓練は長く漫画家として食べていきたいなら不可欠なのだ。
その他にも、
- 読み切りを描く新人は「ひとの心が変わる感動のドラマ」を描くべき
- 「ひとの心が変わる感動のドラマ」を描くには主人公の足りない部分を求める物語を作るべき
- 読み切りには読者が想像した斜め上のハッピーエンドを用意するべき
- リアリズムよりも「マンガとしての正しさ」を優先させるべき
- 「まずは自分が楽しまなきゃ他の人を楽しませることはできない」というのは嘘で、作りては苦労しなくちゃできないし、自分だけ楽しむと客観性が失われる
など、創作について、興味深いことをたくさん語っていた。
かなり具体的なアドバイスが述べられているので、漫画家になりたい人は必読だろう。
『読者ハ読ムナ!』を読んだ感想
漫画家志望の方に限らず、あらゆる職業にもあてはまる部分もあるのではと思った。
何かミスをすると「なんて自分は駄目な奴なんだ」と自分を責めて落ち込んでしまう人も多いが、自分の行動・仕事と自分の人格を切り離して考えれば、必要以上に落ち込まず冷静に対処できるようになると思いました。
また、個性の探し方のアドバイスもとても面白かった。自分のことは意外と自分でもわからなかったりするが、映画や本などの作品、人の考え方などに触れて、自分がどんな風に反応するのか観察してみると、きっと、今まで知らなかった新しい自分を発見できはずだ。そう考えると、普段読まないような本、普段見ないような映画も、たまには触れてみるといいのかも。
日本人が鬱になりやすい理由は遺伝子にあり?『幸福の資本論』橘玲
『幸福の資本論』(橘玲著)については、前回のブログでも紹介したけれど、
本書の「13章 うつは日本の風土病なのか」にものすごく勇気づけられので、今回もまた取り上げてみたいと思う。
↓ 以下は、前回の記事です。
mugitorobukakke.hatenadiary.com
日本は「ハッピーケミカル」であるセロトニンが少ない!
実際にうつになる日本人は多いが、日本人の幸福感は遺伝子レベルで欧米人と違うという有力な説があるという。
セロトニンという神経伝達物質は「ハッピーケミカル」と言われるように、人間の幸福感に大きな関りがあると言われている。
日本人にうつが多いのは、セロトニンが少ないからだとか。
セロトニンを運搬する遺伝子(セロトニントランスポーター)にはS型とL型があり、それぞれの型が組み合わさって、「SS」「SL」「LL」という三つの遺伝子型が決まる。
このS型はセロトニン運搬能力が低く、L型は運搬能力が高い。
S型の遺伝子を持っている人の方が、L型の人よりネガティブなことに反応しやすいのだ。
このセロトニン運搬遺伝子は人種によって違い、アフリカ系の人はLL型が多く、白人、アジア人の順で少なくなる。
特に日本人はS型の保有率が欧米人に比べて5割も多く、LL型は全体の3%しかいない。日本は、LL型の人が世界一少ないという。
97%の日本人は、SSまたはSL型で、セロトニン分泌量が少なく、ネガティブなことに引きつけられやすい。
日本人は、実は超ポジティブでもある!
とはいえ、日本人がうつになりやすい性質があると決めつけるのは性急だ。
その理由は、最も楽天的な性格の人の中に、「SL型」やそれに類する遺伝子型が見つかったから。
SL型の人の方が、LL型よりも楽観的傾向が強かったという。しかも、SS型が一番楽観的だという結果も出た。
SS型はストレスによって抑うつ状態になりやすいのは事実だが、良いことが起きた時にも同様に、深く感じることができる。
逆に、楽観的だと言われていたLL型は、ただ単に鈍感なだけだったそう。
セロトニン運搬遺伝子の発現量が少ない人は、高い人に比べてポジティブなものでもネガティブなものでも、感情的な背景に非常に敏感だ。
なぜL型の遺伝子からS型が現れたのかというと、閉鎖的な農耕社会の中で、親密な人間関係にうまく適応するためではと言われている。
相手の気持ちに配慮できるようになったことで、大きな共同体を維持できるようになったのではと考察している。
日本人は豊かな感受性のせいで遺伝的に確かにうつになりやすい傾向にあるが、自分に適した環境に身を置くと、大きな幸福を手に入れることができるようになるのだ。
ストレスのない環境を創り上げることができれば、楽天的と言われるラテン系やアフリカ系の人よりも楽天的になれる可能性も秘めている。
真面目、几帳面、責任感が強い、人の目が気になる、人間関係のトラブルを嫌うという気質を持った人を「メランコリー親和型」と呼ぶが、典型的な日本人の性格と言える。
ちなみに私は几帳面以外は全部当てはまる「ザ・日本人」な性格なのだけれど、以前はそれがちょっと嫌でもあった。「もうちょっと楽観的に生きられたらいいのにな」と思うこともよくあった。
でも、本書の13章を読んで、自分に合った環境を見つけることができれば、あまり敏感ではないタイプの人よりも、大きな幸せを感じることができると知って、とても勇気づけられた。
幸福に生きるためにも、自分自身をよく知って、自分にとってのベスト・プレイスを見つけたい。
幸せになるために友達は必要ない?!橘玲『幸福の資本論』
『幸福の資本論』を読んだ当時、人間関関係(主に友人関係)で悩んでいて、その時にネットでたまたま見つけて興味を持った。
人が幸福になるための現実的な戦略を紹介している本で、とてもためになった。
幸福になるためには、三つの資本が必要!
豊かな人生を送るために、三つの資本が土台になると著者は説いている。
- 1つ目は「金融資産」。簡単に言うと「財産」「お金」のこと。
- 2つ目が「人的資本」。「仕事」のこと。
- 3つ目が、「社会資本」。「人間関係」のこと。
この3つを揃えると、「スーパーリア充」「超充」になれるが、原理的にほぼ不可能だと橘氏は説く。
だから、普通の人が幸せになるためには、2つの資本を持つことが大切だそうです。
一般的なリア充と言われる人は、人的資本(仕事)と社会資本(人間関係)が揃っていて、典型的なお金持ちは、人的資本(仕事)と金融資産が揃っています(お金持ちになると友達ができない、孤独になるそう)。
一つだけしか資本がない人の一例を挙げると、地方に住む低所得の若者、マイルドヤンキーと言われるような人です。
この人達はとにかく地元愛が強く、昔からの友達づきあいを大切にしていて、少ない収入を人的ネットワークで補っている。
全部失った状態が、例えば「最貧困女子」と呼ばれるような人達で、地元も頼れないし、風俗業界も最近はなかなか厳しく、この頃は介護業界がこういった女性のセイフティネットになっている。
家族や友達よりも、お金を介した人間関係の方が重要な理由
本書の中でも私が一番面白いと思ったのは、社会資本についての章。
人間はそもそも、社会資本(人間関係)からしか幸福を感じることができないという。
遺伝的に、そのようにプログラミングされているのだ。
人間関係というものは、私達の主観的には、愛情空間(家族・恋人)が大半を占めていて、その周りに友情空間があり、友情空間の周りに政治空間(友達でもないけど他人でもない人との関係)、そして薄く貨幣空間(金銭を介した関係)があるという認識だったが、実際には愛情空間・友情空間・政治空間よりも、金銭を介したやり取り、貨幣空間の方が圧倒的にウェイトを占めているそうです。
確かに、数か月に一回会う友達よりも、近所のスーパーの店員さんとか、よく買う飲料のメーカーの方が、自分の生活に密接に結びついている気がする。
政治空間と貨幣空間のルールの違い
そして、政治空間と貨幣空間はそれぞれ、「統治の倫理(権力ゲーム)」と「市場の倫理(お金儲けゲーム)」で動いている。
政治空間・権力ゲームの原則は、敵と味方を分けて、味方を増やしつつ敵を殺すことにある。
一方、貨幣空間の原理は、「正直」「契約の尊重」「他人との協力」の元、競争はするが、暴力を排除する原理で動いている。
この2つの原理が混じり合うと、とんでもないことになってしまう。例えばイギリスのインドにおける植民地支配のように、お金儲けのために権力ゲームの原理を利用することは、非人道的だ。
貨幣空間の原理の方が、実は平和主義的な原理を持っているのは面白い。
「間人」ではなく「個人」として幸福を求めることが大切
ちょっと話は飛ぶが、「個人(individual)」と「間人(the contextual)」の対立について述べている箇所も面白かった。
間人主義というのは、人と人との関係を重んじることで、個人主義は個人の意思を重視すること。
間人としての幸福というのは、「その組織内でのやりがい」とか「帰属意識」ということになるが、間人としての幸福を追う場合は、やりがい搾取のリスクもある。(長時間労働、過労死、自殺)
著者はむしろ、個人としての幸福を追うべきだと述べている。
「幸福に結びつく「自己決定権」の自由度が大きい人ほど幸福」という調査結果が出ているという。「自己決定権がある」ということは「個人主義が尊重されている状態」と言えるだろう。
今の日本の閉塞感の正体は、狭い政治空間内でのやりがいを強要されることにあるのでは、と橘さんは述べている。
人に嫌われることを極端に恐れる日本人は、実は常に「ピアプレッシャー(同調圧力)」にさらされる政治空間が大嫌いなのではないか。一つの組織に永らく留まる働き方ではなく、グローバルな貨幣空間の中で生きる方が、幸福になれるのかもしれない。
最近はネットやSNSの影響で、濃密なつきあいをしなくても、弱いつながりを気軽に持つことができる。
そういった、弱いつながりの中では、「間人」としてではなく、「個人」として自由に振る舞うことができるのだ。
「強いつながり」は、マイルドヤンキーのように「情緒的共感」が大切で、グループ外の人を排除・差別することによって成り立っているが、「弱いつながり」は「認知的共感」の上で成り立っていて、異質な存在にも寛容である。
著者の考える幸福な人生は、「強いつながり」を恋人や家族にミニマル化して、友情も含めそれ以外をすべて貨幣空間に置き換え、さらに一つの組織に生活を依存しないこと(例えばサラリーマンは、人的資本・社会資本を退職と共に失ってしまう)だという。
濃い繋がりは家族と恋人だけで十分だ!
私は元々濃いつながりが苦手で、最近は弱いつながりの方がいいなと思っていたので、この本を読んでとても腑に落ちた。
地元の子供の頃の友人と話が合わなくなって、逆に最近はSNSのコミュニティとかネットを介した人付き合いの方が気楽だし、本当に話しが合う人を見つけられるな、と感じていたので。
濃すぎる人間関係は、軋轢を生んでしまう。
ネットのおかげで気軽な人間関係を簡単に築くことができる今の時代は本当に恵まれているなと思う。もし自分が、昭和のような濃密な人間関係が普通だった時代に生まれていたら、私はかなりきつかったことだろう。
昔から個人主義的な生き方が性に合っていて、海外に行ってみたいと思ったのも、日本的な考え方に馴染めなかった部分もある。
みんなが一丸となって、チームワークで頑張る!みたいな行事(文化祭や合唱コンクールなど)が苦手だった。
致命的なミスをしたらそのグループから排除される、他の集団を必要以上に敵視する、など、「集団って怖いな」と昔から思っていた。ちなみに私は学生の時、合唱コンクールの朝練に遅刻したら、皆の視線が痛かったのを覚えている。
今の学校教育は間人主義的だと思うので、個人主義的な教育にシフトしていってほしいと切に思う。
日本語と言う言語そのものも、相手との人間関係で文体や言葉遣いも代わる「ハイコンテクスト言語」なので、日本人の考え方自体を変えるのも容易ではないのかもしれないけれど。
とにかく、幸福について今一度立ち止まって考えてみたい人に、かなりおすすめの一冊です。
泉鏡花の外科室ーかつて秘密は墓場まで持っていくものだった
作者は泉鏡花。怪奇的・幻想的な作品で知られている、明治から昭和にかけて活躍した作家だ。
この『外科室』は15分くらいで読めるくらいの短編小説で、明治時代に書かれた、不思議で壮絶な物語。文体が古めかしいのでちょっと読みにくいが、内容が面白いので意外と読めてしまった。
『外科室』のあらすじ紹介(ネタバレ注意!)
この物語は、一人称が「予」という語り手の視点から語られる。語り手はある日、東京のとある病院に、友人で医師の「高峰」が執刀する手術を好奇心で見学に行く。
手術を受けるのは、貴船夫人という高貴な女性だ。手術室には、夫人の夫の伯爵のみならず、身分の高い幾人かの者たちも見学に来ている。
手術が始まる前に、貴船夫人は麻酔剤を飲むように言われるのだが、手術中に譫言(うわ言)を言う恐れがあるから、麻酔は飲みたくないと頑なに拒み、麻酔なしで手術をしてほしいと、医者の高峰に懇願する。
困惑した周囲の人は、麻酔薬を飲むよう夫人を説得する。
貴船夫人には7、8歳の娘がいるのだが、娘の姿を見れば麻酔を飲んで大人しく手術を受ける気になるのではないかと彼女の夫が提案するが、夫人は娘に会うことも拒む始末。
結局、高峰は貴船夫人の願いを受け入れて、麻酔なしで手術をするが、夫人は亡くなってしまう。そして、手術を行った医者の高峰も、同じ日に夫人の後を追うように亡くなる。
それから場面は変わり、九年前に遡る。
九年前、語り手と高峰が、小石川植物園で貴船夫人に会っていたことが述べられて、物語は終わる。
空白の九年間、何が起こった?
この小説は、語られていない九年間の空白など、謎の部分が残されているので、解釈の余地がある。
貴船夫人はメスが体に入った時、「痛みますか」と高峰に聞かれるのだが、彼女は「いいえ、あなただから、あなただから」と返事をする。この台詞で、夫人が医者に対して普通ではない感情を持っていたことが仄めかされている。
貴船夫人は医者の高峰に恋愛感情を持っていて、命懸けで秘密を隠し通したのかもしれない。
この小説が書かれた明治時代には「姦通罪」があったのだが、夫のある女性が不倫した場合だけ、罰することができるようになっていた(既婚男性には適用されない、かなり不平等な法律だった)。既婚女性が夫以外の男性に恋をしてしまうことはその当時、罪だった。
貴船夫人は、医者の高峰をどうしても好きになってしまい、妻・母親としての役割がブレてしまうことを恐れて、自殺めいた死に方を選んだのかもしれない。妻であり母親であるのに、よその男性を好きになってしまった自分を罰するためだったのだろうか。
この時代、女性にとって不倫は本当に命懸けだったんだなと思った。令和の時代では書けない物語。
かつて秘密は、墓場まで持っていくものだった
内田樹の『困難な成熟』という本に書かれていたことなのだけど、昔は、秘密というのは墓場まで持って行くもので、バレないように嘘をつくことを頑張っていたという。
でも最近は、すぐバレる嘘をつく人が多くなった。それは個人主義的な考え方になってきたことが影響しているかもしれない。
昔は、「家制度」なんかがあったりして、自分というものはそういう共同体の大きな流れの1つでしかないと意識していて、長い年月が視野に入っていたけれど、今は多くの人が、数年先のことしか考えなくなった。
「嘘をつき通す」というのは確かに、かなりカロリーが必要な行為だと思う。嘘をつき通して、真実を知る者がいなくなってしまえば、もはやそれは「本当のこと」「真実」になってしまう。
私は、「嘘をつきとおす」ことは、他者への思いやり、愛情表現なのではないかと思う。
『かくしごと』(久米田康治作)というマンガがあるけれど(2020年にアニメ化もした)、これは、ちょっと下品なマンガを描いている父親が、娘が学校で恥ずかしい思いをしないように、自分が漫画家であることを頑張って隠し通す物語だ。「お父さんは普通のサラリーマンだよ」と娘に思わせるために、本当にめちゃくちゃ努力する。
今の時代は、こういう一般的ではない特殊な設定を持ってこないと、ドラマチックな「隠し事」の物語が描けないのかもしれません。
現代人は薄っぺらい?
昔の方が良かったとは思わないけれど、自分個人だけの視点ではない広い視野を持って、周囲の人のために、貴船婦人のように命懸けで、何が何でも秘密を隠し通す昔の人に比べたら、目先のことしか考えていなくて、すぐばれる嘘をついてしまう現代人ってちょっと薄っぺらいのでは?と思ってしまった。
与謝野晶子「女らしさ」とは何か
『「女らしさ」とは何か』は、歌集『みだれ髪』で知られる与謝野晶子の短いエッセイで、1921年(大正10年)関東大震災の二年前、『婦人俱楽部』という雑誌に掲載された。
ちなみに、『みだれ髪』は 慎ましさが女性に求められていた時代だったので、情熱的な女性の心情を描いた歌の多い「みだれ髪」は波紋を呼んだ。
当時の感覚では、「恋をして髪が乱れる」という描写が、非常にエロティックだったらしい。髪くらいで「いやらしい」と騒がれるなんて、今では考えられないだろう。
与謝野晶子「そもそも『女らしさ』は存在しない!」
家父長制がっちりで、この時代は女性にとって生きにくい時代だった。
当時の保守的な考えの人は、女性が男性のような高い教育・同等の自由が許されるようになると、「女らしさ」を失って中性的になってしまうのではと心配していた。
だが、与謝野晶子は「男性と同等の自由を与える前に、結果を否定するのは臆断も甚だしい」と、それを強く批判。
また、男性が料理人や裁縫職人など女性の領分である仕事に就いても、「男らしさを失う」と非難されることがないのはおかしい、と述べている。
いわゆる世間でいうところの「女らしさ」は、「愛情・優雅・慎ましやか」だが、そういう要素は、何も女だけに求められることではなく、人間全体に一貫して備わっている人間性そのもの。
女らしさではなく、「人間らしさ」なのではないかと述べている。そういった人間らしさを引き出すのは、教育と労働であると説く。
男子においては人間性の啓発となる教育と労働とが女子においては反対に「人間らしさ」を失わしめる結果になるとは考えられない
さらに与謝野晶子は、以下のように主張する。
- 子どもを産んで母親にならない女性に対して「女らしさを失う」と言うなら、男も父とならないため「男らしさ」を失うと言わねばならない
- 人間は必ずしも結婚して親とならねばならないという事はない
子どもを産み育てることは、確かに自分を成長させてくれるきっかけにはなると思うけれど、だからといって子育てをすれば自動的に皆立派になるわけではない。というのは、私も昔から思っていた。
与謝野曰く、「子育てをせず自分の専門的生活を評価する人は、人類への貢献をしている」とのこと。「人間らしさ」を養う機会は、子育て以外にもあると私も思う。
「女らしさ」からの解放は、女性が人間に帰ること!
最後に、「女らしさ」からの解放は、女性が人形から人間に帰ることであると述べています。
与謝野さんの女性解放論は中でもかなり先進的で、「女性も経済的に自立すべき」という考えだったそう。欧米のような、個人主義的な考え方に近い。
与謝野晶子の主張は、現代では割と「当たり前」で「常識的」な内容と言えるが、「当たり前」にしてくれたのは、彼女たちの頑張りのお陰だと思った。
現代人は、自分に与えられる権利を空気のように当然に思っているけど、その権利を得るために、先人たちが地道な努力をしたことを忘れがちだ。
まだまだ女らしさ・男らしさに囚われつつも…
とはいえ、現代でも「女らしさ」「男らしさ」に囚われている部分はまだある。
例えば、「女子力」「リケジョ」「イクメン」という言葉。
こういった言葉は、外国語には中々訳せない、日本独自のものかもしれない。
また、「甘いものは女の子っぽい」「ラーメンは男っぽい」みたいに、日本では食べ物にジェンダーがあるのが不思議だと、フランス人の知人が言っていた。
でも、若い世代ではジェンダーレスも流行っているし、最近はジェンダーに囚われていない人も多いのかもしれない。
男女問わず「人間力」を発揮して、社会に貢献しつつ、自分を活かせるような生き方をしていきたいものだと思う。
人間椅子・和嶋慎治自伝『屈折くん』最高にロックでかっこいい生き方!
『屈折くん』は、人間椅子というロックバンドのリーダーの和嶋慎治さんという人が書いた自伝エッセイ。
人間椅子というバンドは1987年に結成されたのだが、長い間売れなくて、最近までアルバイトをして生活していたそう。
自分は自伝を書くような大した人間ではないけど、「ただ、僕に何か誇れるものがあるとしたら、好きなことを続けるために、苦労を重ねてきた、ということです。」という前書きから始まる。
青森の弘前で過ごした少年時代から、バンド活動を続けている現在までのことが綴られている。
破滅を求める私小説のような人生
このエッセイは結構長いけれど、とても面白いので、私はすぐに全部読んでしまった。自分をよく見せようとか、格好つけようとか、そういった部分がまったく無くて、本当に自分に正直に書いている様子が伝わってくる。
和嶋さんの人生そのものが、文学のよう。子どものころから心地よくて楽な道よりも、試練を選んでしまう性格で、昔の文学者みたいな破滅型の人だ。
和嶋さんは長い間風呂なしアパートに住んでいたが、それを恥ずかしいと思うどころか、他の人がなかなかできない経験が味わえていると思っていたそう。
ステージで歓声を浴びて、その後新高円寺の陰気なアパートに帰って来る度に、いつも不思議な気がした。今までの激しい演奏がまるで別世界の出来事のような、静寂だった。相変わらず雨漏りがして、湿気っていて、そして死体を焼く臭いがした。台所の三角コーナーにキャベツの芯を入れっぱなしにしていたら、キャベツの黄色い花が咲いた。小さくて、きれいだった。
すごく文学的だなと感じ印象に残った一節。私小説の世界だ。
和嶋さんは、かつて2年間だけ結婚生活を送った。奥さんも綺麗でいい人だし、お金のない和嶋さんの代わりに稼いでくれるのだけど、このままでは幸せ過ぎて創作意欲が湧かなくなるからという信じられないような理由で離婚したという。
僕がこのままでは自分が駄目になる、いい作品を書くためにも、まともな人間になるためにも1人になりたいと言ったところ、奥さんはその理由だけで、別れを受け入れてくれた。
自分の創作のために人生を捧げている、本物の芸術家だと思った。
彼は、作品が他人に評価されることよりも、「自分の心の中から出てきた本当の情熱」を表現することのほうが大事だと語っている。
いくら他人に評価されなくても、自分が「こうだ!」と思った道をひたすら突き進んでいくのは、なかなかできないことだと思う。でも、「人間椅子」は世間から評価されなくても、一切世の中の流行に迎合せずに、自分たちのスタイルを貫き続ける。
所属していたレコード会社に「もう少し売れそうな曲を作ってみたら?」と提案されるたびにノーと言って、自分たちの原点(ブラックサバスのような不気味なサウンドに猟奇的な日本語の歌詞をのせる)に立ち返っていた。
和嶋慎治の親友・みうらじゅんとの対談
巻末にみうらじゅんとの対談があるのだが、みうらさんは和嶋さんの親友。
その中でみうらさんは、人間椅子は「キープオン・ロックンロール」をしている数少ないバンドだと語っている。一時的に「ロックンロール」できる人はたくさんいるけど、「キープオン」の部分がずっとできている人は珍しいから、続けているだけでもう人間から怪獣・妖怪になれる。
そのレベルに達した人は、変装・メイクとかしなくても、特殊なオーラが出てしまって、集団に混じっていても一目でわかってしまう。(例えば、和嶋さんは2キロ先にいた内田裕也が一目でわかったそう。常人にはないオーラがあるというか)
私自身は、どうあがいても怪物レベルには絶対になれないから、他人になんと言われても、我が道を「キープオン」できている人は、それだけで格好いいと思ってしまう。
自分の中の「情熱」は何なのか、今一度真摯に胸に問いかけたくなる一冊だった。
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