本を抱えて窓際へ

かつて文学少女だった30代の読書録。大人になってからは、実用的な本も読むようになりました。

今更読んだ『桐島、部活やめるってよ』学校という狭い世界が全てだったあの頃

今更ながら、『桐島、部活やめるってよ』を読んだ。数年前、大学の教授と飲んだときに「面白かった」と言っていたのをふと思い出したので。(映画版も良いですよ!)

 

 

何だかとても身に詰まされる小説だった。

高校生の話ではあるけれど共学の学校が舞台なので、共学だった自分の中学時代を重ねてしまった。(高校は女子校だった)中学時代はスクールカースト底辺だったから、昔を思い出してちょっと辛くなった。

上位グループの女の子が文化部である映画部の男子をバカにしたり、いけてる男の子が大人しい男の子に言葉をかけたいのにかけられなかったりとか、上位グループと下位グループの微妙な距離感がものすごくリアルで見覚えがあった。

学校が世界のすべてだった、息苦しい時代。

自分の理解できないことを「キモイ」と一蹴したり、何でも人の真似ばかりして自分がなかったり、見た目ばかり取り繕って中身がない子たちの描写に、結構モヤモヤした。私は昔からこの手の人が苦手だ。

上位グループにいても自分の意見を持って周りに流されず、グループや性別関係なく勇気を持って話しかけることのできるかすみは好きだ。「良いものは良い」と言えるかすみみたいな子と友達になりたかった。

また、校長がしきりに言う「君たちは真っ白なキャンバスだ」という言葉への皮肉もとても共感できた。確かに、高校生は大きな可能性を秘めている存在なのかもしれない。でも、裏を返せば、真っ白状態はまだ何者でもないということでもある。

可能性がありすぎて途方にくれ、絶望を感じる。そういえば、作家として駆け出しだった太宰治も、同じように悩んでいたらしい。

今の私は、そういった若い悩みを通り抜けた先にいる(といっても、悩んでいたのもそう昔ではない気もするけど)。学校という狭い「世界」からは卒業したし、「自分が何者であるか」なんて考えなくなった(私は私だし)。

日陰者の苦しみも、仲良しの友達との熱っぽいトークも、異性とのどきどきする交流も、光るグラウンドや埃臭い教室も、皆過去に置いてきてしまった。感傷的過ぎて嫌な言葉だけど、「もうあの日に戻れない」のだ。

そのことに心底ホッとしている自分がいる一方、一抹の寂しさを感じている自分もどこかにいる。そう思うのは、あの時代はあの時なりに、それなりに精一杯生きていたからかもしれない。今までそんなこと考えたこともなかったけど、この本を読んでそう思った。昔の自分が、ちょっと救われたような気がした。