本を抱えて窓際へ

かつて文学少女だった30代の読書録。大人になってからは、実用的な本も読むようになりました。

与謝野晶子「女らしさ」とは何か

『「女らしさ」とは何か』は、歌集『みだれ髪』で知られる与謝野晶子の短いエッセイで、1921年(大正10年)関東大震災の二年前、『婦人俱楽部』という雑誌に掲載された。

ちなみに、『みだれ髪』は 慎ましさが女性に求められていた時代だったので、情熱的な女性の心情を描いた歌の多い「みだれ髪」は波紋を呼んだ。 

当時の感覚では、「恋をして髪が乱れる」という描写が、非常にエロティックだったらしい。髪くらいで「いやらしい」と騒がれるなんて、今では考えられないだろう。

与謝野晶子「そもそも『女らしさ』は存在しない!」

家父長制がっちりで、この時代は女性にとって生きにくい時代だった。

当時の保守的な考えの人は、女性が男性のような高い教育・同等の自由が許されるようになると、「女らしさ」を失って中性的になってしまうのではと心配していた。

だが、与謝野晶子は「男性と同等の自由を与える前に、結果を否定するのは臆断も甚だしい」と、それを強く批判。

また、男性が料理人や裁縫職人など女性の領分である仕事に就いても、「男らしさを失う」と非難されることがないのはおかしい、と述べている。

いわゆる世間でいうところの「女らしさ」は、「愛情・優雅・慎ましやか」だが、そういう要素は、何も女だけに求められることではなく、人間全体に一貫して備わっている人間性そのもの。
女らしさではなく、「人間らしさ」なのではないかと述べている。そういった人間らしさを引き出すのは、教育と労働であると説く。

男子においては人間性の啓発となる教育と労働とが女子においては反対に「人間らしさ」を失わしめる結果になるとは考えられない

さらに与謝野晶子は、以下のように主張する。

  • 子どもを産んで母親にならない女性に対して「女らしさを失う」と言うなら、男も父とならないため「男らしさ」を失うと言わねばならない 
  • 人間は必ずしも結婚して親とならねばならないという事はない

子どもを産み育てることは、確かに自分を成長させてくれるきっかけにはなると思うけれど、だからといって子育てをすれば自動的に皆立派になるわけではない。というのは、私も昔から思っていた。

与謝野曰く、「子育てをせず自分の専門的生活を評価する人は、人類への貢献をしている」とのこと。「人間らしさ」を養う機会は、子育て以外にもあると私も思う。

「女らしさ」からの解放は、女性が人間に帰ること!

最後に、「女らしさ」からの解放は、女性が人形から人間に帰ることであると述べています。

与謝野さんの女性解放論は中でもかなり先進的で、「女性も経済的に自立すべき」という考えだったそう。欧米のような、個人主義的な考え方に近い。

与謝野晶子の主張は、現代では割と「当たり前」で「常識的」な内容と言えるが、「当たり前」にしてくれたのは、彼女たちの頑張りのお陰だと思った。

現代人は、自分に与えられる権利を空気のように当然に思っているけど、その権利を得るために、先人たちが地道な努力をしたことを忘れがちだ。

まだまだ女らしさ・男らしさに囚われつつも…

とはいえ、現代でも「女らしさ」「男らしさ」に囚われている部分はまだある。
例えば、「女子力」「リケジョ」「イクメン」という言葉。
こういった言葉は、外国語には中々訳せない、日本独自のものかもしれない。

また、「甘いものは女の子っぽい」「ラーメンは男っぽい」みたいに、日本では食べ物にジェンダーがあるのが不思議だと、フランス人の知人が言っていた。

でも、若い世代ではジェンダーレスも流行っているし、最近はジェンダーに囚われていない人も多いのかもしれない。

男女問わず「人間力」を発揮して、社会に貢献しつつ、自分を活かせるような生き方をしていきたいものだと思う。