本を抱えて窓際へ

かつて文学少女だった30代の読書録。大人になってからは、実用的な本も読むようになりました。

江戸時代って異世界だ!落語の国からのぞいてみれば

落語の生まれた江戸時代が、いかに現代と違うのかということを解説した、歴史好きにおすすめの一冊。
くだけた文体で、真面目な本ではないのでとっつきやすいが、内容は結構深くて面白かった。常識というものは、時代が変わればまったく違うかたちになるんだなということを、再確認させてくれる。

以下では、本書の中で私が面白いと思った部分をご紹介。

かつて正月は皆の誕生日だった!

まず、第一章の「数え年のほうがわかりやすい」という章で、現代と昔では年齢の数え方が違うということを紹介している。
現代では、0歳から始まる「満年齢」という数え方が採用されていますが、昔は1歳から始まる「数え年」が主流だった。
「数え年」は結構最近まで使われていて、「満年齢」で数えるようになったのは戦後だそう。(昭和一桁生まれのうちの祖母も「数え年」を使っていたと言っていた)
満年齢の場合は、誕生日を迎えるごとに年齢が上がるが、数え年の場合は全員が一斉に、新年を迎えるたびに年をとることになる。
昔は、お正月というのは皆の「誕生日」だったので、盛大にお祝いしたのだ。

昔は、それぞれの誕生日をお祝いする習慣はなかったらしい。

誕生日のお祝いをするのは、天皇とか貴族とか将軍とか、社会的地位のある公的な存在だけだった。生き死にが社会に影響を与える人だけ、誕生日というものが存在していた

誕生日を祝ってもらうことは、自分のプライベート部分をパブリックに渡してしまっている意識がある人しかできなかっただろう。

現代では「個性」という考え方が浸透しているけど、近代以前では「個性」という概念自体が無かった。
「満年齢」とか「誕生日を祝う」というのは、個人を中心にした近代的な考え方だそう。

「Happy birthday to you」という歌があるが、そういえば、この歌の日本語版はない。ちなみにフランス語、イタリア語、ドイツ語、中国語、ロシア語、アラビア語版はあるそう。日本語版がないのは、個人の誕生日を祝う習慣がなかったからなのか、と納得した。

江戸時代にはなかった「個性」

このように、この本では一貫して「江戸時代は『個性』という概念が存在しなかった」ということを述べている。

例えば、昔は自分の好き嫌いで決めることができなくて、結婚も恋愛した後にするものではなかった。社会的な規則に従わないで、自分たちの好き勝手に結婚する人は低くみられていたそう。

今の時代は「個性」がもてはやされるけれど、今と違って昔は「個性」とか「人と違う」ということが許されていなかった

例えば、本書では「左利きのお侍さんは存在しなかったのでは」と考察している。

侍は公的な存在で、すべてパブリックに行動しなければいけない。侍は徹頭徹尾、お家のために生きている。そんな世界で、利き手は左だから、刀を左で使いたい、という無理は通らない。

みんなが自分の何かを削って集団に分け与えないと、集団ごと滅亡してしまいそうな時代は、人は大きなルールを決めて、それを守る。守れない連中は端っこのほうに追いやる。それが近代以前の社会である。

「個性を発揮する」「みんなちがって、みんないい」というのは、命の危険のない安全で豊かな社会だけに許された、ものすごく贅沢なことなんじゃないかと思った。

昔の人の「社会の構成員の一人」という認識は、疎外感は感じないかもしれないけれど、たまに息苦しくなることもあったのではないかと、私は思ってしまう。

一方、現代は(特に都会では)人とのつながりが少なくなって気楽だけど、その分、疎外感は感じやすい。
どちらが良いか悪いか決められないけれど、「個人」を尊重し過ぎるのも考えものだし、完全に自分をなくすのも嫌だなと思う。

人間関係がドライな都会で生まれ育った私は、今まで「個性」や「個人」を中心に考え過ぎていたけれど、集団の中で生きているということも忘れてはいけないと思った。

 

 

エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層ー複雑な国際情勢理解の一助に!

エマニュエル・トッドは、人口統計・家族構造に注目して、世界情勢を分析をしている、フランスの歴史人口学者・家族人類学者。

最近では、ロシアのウクライナ侵攻についてのインタビューも話題になった(トッドは、根本の原因にアメリカがあるのではと述べていました)。

エマニュエル・トッドは「予言者」か?

エマニュエル・トッドは「ソ連崩壊」や「トランプ政権誕生」を予見していた人で、メディアでは予言者扱いされているが、予測は全て統計などの数字から導き出されているという。

例えば、ソ連崩壊を予想したのは、ソ連の乳児の死亡率が上がっていたことからだそう。国は発展すれば乳児の死亡率が下がっていくのが普通だけど、ソ連は下がるどころか上がっていて、「これは国として長く持たない」と判断。

さらに、トランプ政権誕生を予想したことに関しては、トッドの「家族構造研究」が大きく関わっている。

トッドは、ヨーロッパ、アメリカ、日本、中国など、世界の主だった国を4つの「家族構造」で分析。
国・地域によって家族のあり方・システムが違っていて、この家族構造の違いが、その国の政治・社会に大きな影響を与えているという考え方だ。

以下、トッドの説く家族構造をご紹介。

1)絶対核家族(アメリカ、イギリスなど)

  • 子供は成人したら親からの早期独立が望まれる
  • 教育に熱心ではない
  • 親は兄弟間の平等に無関心
  • 相続は遺言によって行われる
  • 基本的な価値観は自由で、自由経済を好む

アメリカはこのような絶対核家族の家族構造なので、教育熱心ではなく、低賃金で働くプアホワイトが多い。そういったマジョリティの低所得の白人は、増加しているヒスパニック系の移民と仕事が被ることが多く、移民に仕事を奪われていると感じている(低所得層の白人男性の自殺率が高かった)。

トランプはそういったいわゆる「アメリカ人」の不満を汲み取ったようなマニュフェストをしていたから、トッドはトランプが大統領になるのではと予見していた。トランプ大統領誕生は、「自由」と「競争」に疲れてしまった、絶対核家族原理の自己免疫反応では、とのこと。


2)直系家族(日本、ドイツ)

  • 長男一人が土地や財産を相続する
  • 兄弟間は不平等
  • 女性の地位が比較的高い(長男の嫁の権力)
  • 親は子供の教育に熱心(識字率は高い傾向)

直系家族の国は、基本的に縦社会で、不平等。長男に脈々とすべて受け継がれていくので、かなりの知識の蓄積がある。日本やドイツが敗戦後、経済的に強国になれたのも、直系家族ならではの知識の厚みのおかげでは、と考察。


直系家族のデメリットは、下の者が上の者に忖度しがちになる点。間違っていても指摘しづらい空気がある。この点が、日本の軍部の暴走・ドイツのナチスが生まれた原因と指摘している。
また、基本的に差別を抱える構造になっているので、移民を受け入れるのは簡単ではない。

3)平等主義核家族(フランス、スペイン)

  • 相続において兄弟は平等
  • 個人主義で子供の教育には熱心ではない
  • 自由と平等を好む

基本的に平等を好む社会なので、一番移民を受け入れるのに向いている。フランスでも、フランスのルールを守っていると、外国人でも一応、平等に扱ってくれる。

個人的に面白いと思ったのが、「フランスがおしゃれになった理由」について。

フランスの農民は自分の土地を所有できなかったので、相続は不動産ではなく動産(道具、家具、衣服、装飾品)がメイン。お金に替えられるような、価値ある物を生み出すために、デザイン、品質がどんどん洗練されていったそう。

 

4)外婚制共同体家族(ロシア、中国)

  • 一族外から嫁をもらう
  • 親の権威が強く、兄弟間は平等。
  • 教育熱心ではない
  • 女性の地位はあまり高くない。

この構造は、まさに共産圏そのもの(プーチン、習近平)。一人の独裁者の下に、国民全員がいる。
独裁者が仕切っているうちは国は安泰だけど、トップがいなくなると、たちまち崩壊してしまう危うさがある。


何でもかんでも民主主義がいい!と思いがちだけど、それぞれの国に合った政治形態があるのだな、と思った。

識字率と出生率の、深い関係

その他に、トッドは出生率の高さと女性の識字率の高さに相関関係があると指摘している。女性の識字率が上がると、周りの言うがままではなく自分で決定できるようになるので、必然的に出生率が下がる。

日本の少子化の原因は、元々女性の識字率が高いというのもあるけれど、「直系家族」に特有の教育熱心さ(日本は教育費が高いので、次の子を産むのをためらう)、長子重視なので、そもそもたくさん子供を産みたがらない、という部分も関係しているのでは、と考察されている。日本は、少子化しやすい要素が重なっている国だそう。

 

本書は、世界の国々について理解を深めたり、国際ニュースをまた違った視点で見ることができるようになる本だと思います。

鹿島茂さんの解説が非常にわかりやすいので、予備知識がなくても理解できます。

美女に憧れるストーカー男の深い業ー川端康成の『みずうみ』

この小説は、いわゆるストーカーがテーマになっている作品です。

エロティックな小説が好きな人におすすめです。

知人の日本文学好きベルギー人男性が「面白かった」と言っていたので、私も気になって読んでみました。

川端康成の『みずうみ』ストーリー紹介

主人公の男・桃井銀平は、町で気になる女性がいると後を付けてしまう癖がある男。

新潮社版の解説では、以下のように解説されている。

現代でいうストーカーを扱った異色の変態小説でありながら、ノーベル賞作家ならではの圧倒的筆力により共感すら呼び起こす不朽の名作である。

社会的にアウトな「ヤバい人」を描いているのだけど、描写があまりにも見事で、美しささえ感じられるのは、流石川端。

ストーカー男・銀平が、お店の女性に語っている場面では、彼の凄まじい狂気を感じる。

ゆきずりの人にゆきずりに別れてしまって、ああ惜しいという……。僕にはよくある。なんて好もしい人だろう、なんてきれいな女だろう、こんなに心ひかれる人はこの世に二人といないだろう、(中略)この世の果てまで後をつけてゆきたいが、そうも出来ない。この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね。

人間の中に巣食う、どうしようもない変態性を、見事に芸術へと昇華させている。

 

男にとっての「みずうみ」とは何だったのか

主人公の桃井銀平は湖のそばで生まれ、幼少期は湖を眺めながら過ごした。
彼の母親はとても美人だった。しかし、父親は醜い容姿で、湖で死んだ。
銀平は故郷でいとこのやよいという少女に対して恋心を抱いていたが、その恋が叶うことはなかった。
湖は美しさの象徴として、作中で繰り返し語られる。

少女の目が黒いみずうみのように思えて来た。その清らかな目のなかで泳ぎたい、その黒いみずうみに裸で泳ぎたいという、奇妙な 憧憬 と絶望とを銀平はいっしょに感じた。

美しさの象徴が「みずうみ」だとしたら、醜さの象徴は銀平の足だ。

他人が見たらぎょっとするような形の足をしていて、彼はそのことに強くコンプレックスを抱いている。

この足に関する描写も、作品の中で何度も繰り返されます。

肉体の一部の醜が美にあくがれて哀泣(あいきゅう)するのだろうか。醜悪な足が美女を追うのは天の摂理だろうか。

銀平は、戦後に町へ出て高校教師になるが、その教え子と恋仲になってしまい、教え子の両親に仲を引き裂かれ、破局してしまう。
この教え子との関係が深くなるのも、銀平が少女の後をつけたことがきっかけである。

教え子と別れた後も、銀平は町で気になった女性の後を付けるようになる。
夜道でとある女性の後を付けていた時、その女性に気づかれてハンドバッグを投げつけられたことがあった。

その女性は宮子という名前で、お金持ちの老人の愛人をしていた(今でいう、パパ活的なことでしょうか…。)。
彼女は若く美しい女性なのだが、心のどこかで老人のお妾さんをしていることに、鬱屈した感情を抱いている。

銀平に後をつけられることに密かに歓びを覚える宮子…。こういった、後ろ暗い欲望の描写に痺れました。

近づけば遠ざかってゆく「美」

ラストシーンも印象的だ。
美に憧れるが、近づこうとすればするほど遠ざかってしまう切なさと、そんな主人公の男に対する作者の皮肉っぽさが相まったラストシーンだった。
川端康成は「美しさ」を追い求めた作家なので、『みずうみ』の主人公に自分を重ね合わせている部分もあるのかもしれない。


読後、見てはいけないものを見てしまったような背徳感を抱いた。

「むっつり」とでも形容できるような、じっとり湿度の高いこういう小説は、ものすごく日本的だなと思いました。業深いエロスを舐り回すように愉しみたい方は、ぜひご一読を。

 

寺山修司の『田園に死す』ー鬱陶しい母性に蝕まれてゆく恐怖と恍惚。おすすめ邦画

良い意味で、クレイジーな映画だった。

夢野久作や江戸川乱歩のようなエログロナンセンス、シュールレアリスムをぐつぐつ煮込んだ、とっても濃い味の作品。

暗くて閉鎖的で狂気に満ちた田舎から抜け出そうとする、寺山修司の少年時代を表象するような一人の少年の物語だ。

舞台は、あの世とこの世の狭間にあるような、日常の中に死のにおいがする恐山の麓

八千草薫扮する若い嫁を喰い物にしようとする隣人親子、生んだ子を生贄に捧げるよう迫られる女、爛れた性を謳歌する変態サーカス団、噂話に興じる黒装束集団、そして夫亡きあと一人息子を放すまいと執着する少年の母。

少年はそんな混沌に満ちた故郷を捨てどこかへ旅立つことを希求するが、ふるさとの大地は易々と少年を解放してはくれない。

混沌の中でもがく少年を、母なる大地は執拗に抱きしめる。

優しく包み込んでくれる母性の中は、まるで子宮の中のように暖かく、心地が良い。

だが、その中で少年は芽生え始めた自我をどろどろに溶かされていく。

母性の中で、少年は自分の「時間」を手に入れることさえできない。

閉ざされた家の中で四六時中鳴り響く壊れた柱時計の音が、少年の耳から離れない。

少年は、年頃らしく女性の存在にたまらなく惹かれる一方で、混沌とした女性性ー母性ーに呑まれてしまうことを何よりも恐れていた。

思春期の頃の性への憧憬と戦慄が入り混じった、甘くもほろ苦い気持ちを思い出した。

作品には、死と血のにおいが濃厚に漂っている。

鮮血のような赤は、作中で繰り返し画面に現れる。

そして、少年時代の頃に果たせなかった「母殺し」をするために、二十年後の少年が村にやって来る。

愛するが故に人生の重荷となる母を殺すため、縄と鍬を用意していざ生家へ・・・。

 

何の説明もなく主人公が野性爆弾みたいな白塗りだし、前衛的でシュールだけど、流れているテーマやストーリーはわかりやすいので、「わけわかんない映画はちょっと」という人でも楽しめると思います。ラストシーンも、一度観たら絶対に頭から離れなくなる類のものでした。

ちなみに『田園に死す』は、時代劇で多くの悪役を務めた菅貫太郎さん唯一の主演映画でもあるそうです(個人的に、若い頃の菅さんは町田康さんに似ていて男前だなと思いました)。

 

田園に死す

田園に死す

  • 菅貫太郎
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谷崎潤一郎『陰翳礼讃』日本文化は羊羹の味わいのように奥深い。

私はかつて十年ほどヨーロッパに住んでいたことがあるのですが、日本を離れてみると、日本の良さが改めて身に染みて感じられます。

日本人や日本文化の持つ礼儀正しさ、清潔さ、何でも受け入れてしまう大らかさ、文化的な豊かさ、奥ゆかしい優しさが恋しくなります。

若いころはヨーロッパの華やかな文化に憧れたものですが(だからこそ海外にやって来たのですが)、年齢を重ねると、一見地味だけれど噛めば噛むほど味わい深い日本文化にどうしようもなく惹かれるようになっていきました。

『陰翳礼讃』は、そんな日本文化の奥深さに気づかせてくれた一冊です。

1分でわかる『陰翳礼讃』要約&あらすじ

日本の伝統的な美意識について、谷崎が自分の意見を述べたエッセイです。
陰翳礼讃というタイトルが示すように、陰翳を含んだ美をひたすら褒め称えています。

美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。『陰翳礼讃』

谷崎は、花鳥風月を愛でることのできる薄暗い「」の心地よさから始まって、漆器羊羹味噌汁お座敷金箔美少年の能役者文楽日本女性の鉄漿(おはぐろ)など、様々な日本の伝統に陰翳のあやが織りなす美しさを見出しています。

羊羹やお椀の味噌汁なんかを愛でたくなる!

『陰翳礼讃』は、他ではお目にかからないような、あまりにも独特な表現が多く、読んでいて楽しいです。

私が好きな表現はこちら。

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよ/\した肉体を支えたような感じでもある。

「お椀を手に持った感じは、赤ちゃんのぷよぷよの体を支えたような感じ」という表現はなかなか突飛だけど、でもなんだか感覚がわかる不思議。吸い物を飲むときは、硬い陶器じゃなくて、やっぱり柔らかみのある漆のお椀がいいですね。

また、食い意地が張っている私は特に食べ物の描写に食欲を刺激されました。以下は、羊羹と味噌汁に関する件の引用です。

かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。
私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、いつもは何でもなくたべていたあのどろ/\の赤土色をした汁が、覚束ない蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実に深みのある、うまそうな色をしているのであった。

楽天やアマゾンのレビューにこんなのがあったら、絶対買ってしまいそう。羊羹や味噌汁の色合いを愛でるために、薄暗いところで食べてみたくなります。

さらに、日本女性の美については、陰翳の中で見る姿が一番美しいと述べています。

なるほど、あの均斉を缺いた平べったい胴体は、西洋婦人のそれに比べれば醜いであろう。しかしわれ/\は見えないものを考えるには及ばぬ。見えないものは無いものであるとする。強しいてその醜さを見ようとする者は、茶室の床の間へ百燭光の電燈を向けるのと同じく、そこにある美を自みずから追い遣ってしまうのである。

現代の日本女性は食事の変化で体格もよくなり、例えば冨永愛のように西洋人に見劣りしないスタイルの人もいますが、谷崎の時代は恵まれた体型の日本女性はあまりいなかったのでしょう。

すべてを白日の下に晒して暴いてしまうのは野暮で、敢えて闇は闇のままにして陰翳が織りなす美を愛でる。騙されたふりをして、美の魔法にかかる。

とても成熟した、大人の愉しみ方だなと思います。

個人的に、日本人は美意識がとても高い民族だと思っているのですが(例えば、ファッション一つとっても皆お洒落です)、そんな日本人の秘密を垣間見た気がしました。

『陰翳礼讃』は、日本の美について興味がある人に、おすすめの一冊です。英語版やフランス語版も出ているので、日本に興味のある外国人に薦めるのもいいかもしれません。